HISTORY

ヒストリー

「挑戦」の連続
幾多の困難を乗り越え、社員と共に歩んだミリオンの歴史

終戦間もない1949年、当時、東京都練馬区にあったアメリカ空軍の家族宿舎「グラント・ハイツ」の前で開業した1軒のスーベニアショップ。それが、ミリオンインターナショナルの原点です。その創業者である小島幸治と妻のツヤ、そして二人の息子である豊が多くの社員と共に挑戦を続け、いくつものハードルを乗り越えながら創り上げてきた70年以上に渡る「ミリオン」のヒストリーをご紹介します。

1history

原点は外国人向けスーベニアショップ、レジャー産業に着目しパチンコ事業へ

太平洋戦争が終わった4年後の1949年、ミリオンインターナショナルの現代表である小島豊の実父・小島幸治は、東京都板橋区の赤塚新町で、当時、日本に進駐していた米国軍人とその家族向けに室内装飾品や雑貨の販売を始めた。今の光が丘の地に構えたこのスーベニアショップ(土産物店)がミリオンの原点だ。

彼らが好んで使うコーヒーカップや自転車、子供用のおもちゃ、鳩時計、クリスマスツリー用のもみの木、さらには基地の外での居住を許可された軍曹や将校のために土地付きのアメリカンハウスなどを提供するという商いである。1ドル360円の時代における、世界で一番豊かな米国人相手の商売は順調に続いたが、その転機になったのが1953年の朝鮮戦争の休戦協定だった。

日本に駐留していた米軍が撤退を始め、外国人相手のスーベニアショップとしての曲がり角を迎えた幸治は、その頃から日本で芽吹き始めていたレジャー産業に着目。現金商売への移行を考え、1958年に有限会社ミリオン商事を設立し、パチンコ事業に乗り出した。現在の『ミリオン東武練馬13号店』がある練馬区北町 に「パチンコミリオン」を構えたのが、現在も続くミリオングループにおけるパチンコ事業の始まりである。

この時、長男の豊はまだ小学生。1号店の2階で寝起きし、ペギー葉山の『南国土佐をあとにして』やクレージーキャッツの『スーダラ節』を聞き、『蛍の光』が子守歌代わり。時には酔っぱらいの喧嘩騒ぎで飛び起きるという環境だった。

2history

創業者の急逝で事業継続の危機、
心痛の中で家業を引き継いだ妻と高校生でホールの住み込みを始めた長男

多くのパチンコ店と同様、ミリオンのパチンコ事業も日本の高度経済成長を背景に順調に推移した。成増や上石神井といった私鉄沿線の駅前に矢継ぎ早に出店し、10年ほどで練馬を中心に8店舗まで店舗数を拡大する。そのすべてが今とは比較にならない規模の小型店とはいえ、パチンコ店の多店舗展開は当時はあまり例をみないものであり、幸治のワンマンで気短な性格を示すものだった。

ところが1969年、それまでミリオンの事業を一手に牽引し、朝早くに起きて帰宅は深夜に及ぶ日々を過ごしていた仕事一筋の幸治が、44歳の若さで急逝した。脳溢血だった。

妻のツヤは、結婚当初から商売を一緒にやってきたとはいえ、一切の采配は幸治の仕切りで、資金繰りや人遣いの要領には全く関知していない。長男の豊も当時16歳の高校生。事業のすべてを牽引してきた大黒柱を突如失う事態に陥ったミリオンの事業継続は、誰の目にも不可能に映ったこの時、深い悲しみに包まれていたツヤが決然として事業の継続を宣言した。

1928年、千葉県船橋で11人兄妹の末っ子として生まれたツヤは、幼い頃から周囲に可愛がられ、天真爛漫でおおらかな性格のまま成長。帝国女子専門学校を卒業し、地元で国語の代用教員を務めていたが、17歳離れた長兄が池袋西口の駅前に靴店を出店したのを機に、売り子としてこれを手伝うようになった。

ここで、何度も客として通いつめ、どう考えても必要ないほどの大量の靴を買い求めていた幸治からの求婚に応じる。結婚後は、誰とでも仲良くなれる天性の性格が幸いし、幸治が開業したばかりのスーベニアショップで外国人を相手にしているうちにいつの間にか英会話をマスター。女性ではまだ少なかった運転免許も早々に取得し、払い下げのフォードで配達周りをするなど、ワンマンで亭主関白の幸治を支えた。

「パチンコミリオン」の開店後も、朝から晩まで働いた。玉補給も玉磨きも全て人の手で行っていた時代だ。ツヤは、従業員とともにそうした重労働に就いただけではなく、慢性的な人手不足で住込み三食付きが当時の雇用形態ということもあって、その賄いをこなすかたわらで子供たちの世話もした。

とはいえ、繰り返すが会社の経営やパチンコ営業のことはツヤにはまるでわからない。ましてや、夫の急逝による精神的なショックが癒えない中での事業継続の宣言には、周囲の誰もが驚いた。

その姿を目の当たりにした長男の豊は大学への進学を断念し、ツヤとともに父が育ててきた事業を継ぐことを決心。目黒にあるパチンコ店に住み込みで働きながら高校へと通うことにした。

3history

「珈琲茶館 詩仙堂」のオープンとインベーダーゲームで事業の多角化に

パチンコ店の経営や運営のイロハを目黒のパチンコ店で学んだ豊は、高校卒業と同時に店舗数7店、従業員50名を抱えるミリオン商事の専務に就いた。幸治が急逝したショックから情緒不安定な状態が続いていたツヤに代わり、家族や社員たちを守る立場となり、お客様や従業員、取引先との馴れない対応の日々でさまざまな苦労を重ねながらも、周囲の人たちに助けられながらパチンコ店の運営を続けた。

一方で、事業の多角化を視野に入れていた豊は、東京・渋谷の公園通りに喫茶店「珈琲茶館 詩仙堂」を開業し、飲食事業に乗り出す。1975年、石油危機による狂乱物価は政府の引締政策の強化で多少の落ち着きを取り戻したとはいえ、高度経済成長の反動で完全失業者が100万人の大台を突破していた時のことである。

当時は珍しかった京都モダンをベースにした「詩仙堂」は、店舗コンセプトとハイセンスな内装が話題を呼び、多くの雑誌に取り上げられる人気店となった。

この「詩仙堂」の成功に続き、豊はさらなる経営の多角化を目指した。喫茶店の次に着目したのは、当時流行し始めていたインベーダーゲーム。とはいえ、人気絶頂の頃のインベーダーゲームは、製造元であるタイトー製でカラー画面が55万円、白黒画面でも24万円という高価格だ。そんな価格でも実際は入手は困難で、まともに買えば1台200万円から300万円というプレミアがついていた。

こうした状況下で、豊はかねてより知己を得ていたサミー工業の里見治社長(現セガサミーホールディングス代表取締役会長)の協力を得て、同社がタイトーから許諾を得て製造した1号機から20号機を優先的に譲り受けることに成功。1980年、叔父が経営していた東京・池袋の元靴店を改装し、総台数40台のゲームセンターを始めた。

20台のインベーダーゲームを主力にした同店は、社会全体で100円玉の流通量が足りなくなるほどの空前の大ブームに乗り、連日大盛況の賑わいをみせた。赤字を出していたパチンコ事業の損失を相殺するほどの売上を叩き出し、経営難に喘いでいたミリオンにとっての「救世主」になったのである。

4history

フィーバー機の出現でパチンコ事業も復活

そのインベーダー・ブームに翳りが見え始めた頃、「路地裏商売の主役」と言われたパチンコ業界にも新たな潮流が生まれていた。複数の絵柄が揃うとアタッカーが開放され、一発逆転で多くの出玉が獲得できる「フィーバー機」の出現だ。これによって下火になっていたパチンコ業界が大衆娯楽としての復活の狼煙を上げ、息を吹き返し始めたのである。

ミリオンもこのフィーバー・ブームの恩恵を受け、パチンコ事業の業績は確実に上向き始めた。これを追い風とし、1981年には西武池袋線の石神井公園駅前にあった郵政省払い下げ地を他社と共同で開発し、ミリオンのパチンコ店をはじめとする複数の商業施設と分譲マンションの複合型ビル「ライオンズプラザ石神井公園」を作る。パチンコ店と分譲マンションの複合は全国的にも珍しいものであり、業界内外から高い評価と大きな支持を得た。

ところが、好事魔多しである。インベーダー・ブームとその後のフィーバー・ブームにも助けられ、一連の事業が順調な推移を示していた中で、突如、小島家に凶事が襲う。1983年の暮れの未明、自宅がガス爆発によって全焼するという大事故が発生したのだ。

就寝中だった豊は、大量に漏れ出したガスを吸って一時は意識不明の危険な状態に陥ったが、爆発と同時に天井が落ちたことで、その下敷きになった衝撃と外気の流入で意識が引き戻された。まさに九死に一生だった。しかしこの時、母親のツヤは爆発で数メートルも吹き飛ばされ、顔の形も色も変わってしまうほどの大火傷を負った。

ツヤはそれから1カ月もの間、生死の境をさまようことになったが、しばらくすると奇跡的ともいえる回復を見せ、事故から4カ月後には無事に退院。その退院当日のうららかな春の光、桜花爛漫の美しい情景は、いまでも豊の記憶に鮮明に残っている。生きていることの喜び、生かされていることへの感謝、ありがたさが幾度もこみ上げてくる中で、豊は一度限りの人生をもっと充実したものにしたいと強く想ったという。

5history

景品問題の健全化と暴力団排除、揺るぎない「覚悟」

小島家を襲ったガス爆発の翌年、次男の茂が大手不動産会社を退職してミリオンに入社した。外の社会で経験を積んできた茂は、会社の管理部門を主導し、各部門の体制を確立しながら組織の近代化・合理化に着手。「家業」から「企業」への転換を推し進めた。

こうして整備された社内体制のもと、フィーバー・ブームの勢いにも乗って新規出店や既存店の増床を続けていたミリオンだったが、この好調さの陰でまたもや新たな不安が忍び寄っていた。売上の拡大傾向が続くパチンコ店に対して、暴力団が公然と関与を強めてきたのである。

そうした状況に対して、豊が悶々とした日々を過ごしていた1989年6月、パチンコ業界全体を震撼させる事件がミリオンの地元で起こった。警視庁保安課が東京・成増のパチンコホール1軒と景品交換所を風適法違反で摘発したのだ。警視庁は、以前からパチンコ店の景品交換所が暴力団の資金源となっていたことに目を付けており、パチンコ店側に暴力団排除を強く要請していた中での摘発劇だった。

ミリオンの摘発はなかったものの、これによって暴力団に流通する怖れのある賞品の取り扱いの即時停止を命じられる。そのため、当該エリアのミリオンではタバコや菓子、雑貨といった一般賞品だけでの営業に切り替えざるを得なかった。

当時のパチンコ店営業にとって、暴力団との一種の共存関係を断つことはさまざまな意味で困難で、多くのパチンコ店が警視庁の要請に消極的姿勢だった。しかしこの時、豊は逆に今回の警察の取り締まりを千載一遇のチャンスと捉え、景品問題の健全化に向けて積極的に警視庁と懇談を重ねていく。

一般賞品だけの営業に切り替えた店舗では、みるみるうちにお客様が減り、売上は最盛期の20分の1まで急落。赤字が増える一方だったが、豊は暴力団が諦めるまで一般賞品だけの営業を続ける覚悟だった。「この機を逃してはパチンコは未来永劫、『虚業』『賤業』の立場から抜け出すことができない。それを職業とする自身も社員も家族も、仕事の誇りや生きがいを感じることのない無意味な人生で終わってしまうのではないか。この難局に立ち向かい、パチンコを真の娯楽産業に再生していくのが自分の使命だ」という、強い信念がそれを支えていた。

6history

金地金を他社に先駆けて採用、暴力団一掃の大きな「転機」に

警視庁の全面支援を受けながら暴力団排除に取り組む豊だったが、一方の景品問題の健全化、適正化の具体的な方策については解決の手がかりのない状態が続いた。しかし、これを解決しない限りパチンコ店の運営は事実上不可能である。そのことは、一般賞品だけの営業をしている自らの店舗の状況をみれば明らかだった。そんな、問題解決に向けた想いの強さが、徐々に暗中模索の状況を打破する。

そのひとつが、金地金(純金コインバー)をホールの賞品として提供し、お客様はそれをチケットショップに持ち込み、お客様の自由意思で売買してもらうというアイデアだった。市場性、流通性のある賞品を提供することで、暴力団につけ込まれていた違法性もなくなり、暴力団排除の大きな切り札になると確信した豊は、その準備に奔走した。

そして、一般賞品だけの営業が4カ月以上続いた1989年11月、私服警官が厳戒体制をとるなかで、日本で初めて金地金をお客様に賞品として提供するパチンコ店が誕生する。オープン当日はこの4カ月半の営業とは打って変わり、朝早くから大勢のお客様が詰めかけた。

小さいときからパチンコという商売に劣等感を抱き、どこかで卑下してきたところがあった豊は、この日のお客様の笑顔を目の当たりにして、生まれて初めてこの仕事に誇りと喜びを感じたという。

豊にとってのこの「転機」は、都内の業界にとっても大きな転機となった。金地金を使った新しい賞品流通のスタイルは、それまで暴力団の影に怯えていた業界を勇気づけ、後についてきてくれる経営者が徐々に増え始めた。これが組合としてのまとまった動きになり、警視庁との二人三脚で1998年までの間に都内全域のパチンコホールから暴力団を完全に一掃することに成功する。

1990年代の半ばから後半にかけては、都市銀行や証券会社、航空会社、自動車製造販売会社、不動産会社、百貨店、食品会社といった名だたる大手企業の役員や会社関係者が、暴力団・総会屋とともに利益供与・受供与で検挙され、深刻な社会問題になっている。都内のパチンコ店が展開した暴排活動は、他の業界における「縁切り」よりも早く、また、暴排達成後における再関与防止が徹底された点においても日本の産業界の先駆けになった。

7history

さらなる業界健全化への「想い」全国初の全店舗全台プリペイドカード導入

暴力団排除活動を続けた豊は、一方でパチンコ業界の健全化に向けたさまざまな取り組みを積極的に推進した。業界全体を健全化することで、従業員たちが胸を張り、誇りを持って働ける商売にしたい。そんな「想い」が豊を突き動かしていた。

たとえば、当時のパチンコ業界で問題視されていた不透明な経理問題、脱税問題の透明化に向け、警察庁が業界健全化の施策として推奨していた全国共通プリペイドカードの導入をいち早く決断。1994年6月、ミリオンは全国で初めての全店舗全台のカード化を達成したパチンコホール運営会社となっている。

さらには、その年の暮れ、豊は東京都遊技業協同組合青年部会の代表世話人に就任し、志を同じくする仲間らとともに業界全体の健全化・近代化・明朗化に取り組んだ。災害が発生した現地に足を運んでの体を使ったボランティア活動などの社会貢献活動を積極的に展開したほか、当時、業界が頭を痛めた変造カードやゴト師による不正などの問題に対して正面から議論。「不正排除なくして、業界の存続なし」を信条に、正直・親切・愉快・公正を旗印に掲げて立ち上げた情報ネットワーク網は、それまで店舗単位、企業単位に留まっていた各種の被害情報を共有したことで、会員店舗における被害の未然防止に大きな効果を発揮した。

情報共有と並行して、その問題解決に向けた関係各所への働きかけも行った。いかにも青年部会らしい、こうしたフットワークの軽い一連の活動は業界内でも大きな注目を集め、東京都に留まらない広がりをみせた。その後、遊技機や設備機器の供給側によるセキュリティ強化や法的な環境の整備、業界ルールの変更などが矢継ぎ早に行われ、結果的にはこの頃を境にパチンコ業界における各種の不正は大きく減っていくことになった。

8history

競合店舗との「戦い」を乗り越え初の郊外型大型店舗が誕生

2002年、それまで専務であった豊が代表取締役に就任し、ツヤが取締役会長に就いたこの年、ミリオンが2店舗を構えていた埼玉県和光市に大型競合店が進出してきた。

豊が業界の健全化に向けて東奔西走している間に全国のパチンコ店は物理的容量的な限界に達し、企業間の競争が一層激化。多店舗展開で規模の拡大を目指す大手ホールの進出によって、勝ち組と負け組みの明確な二極分化が各地で進行していた。

かつての成功体験の上にあぐらをかいていたわけではないが、和光への競合店の進出は豊にとって「優勝劣敗」「弱肉強食」といったパチンコ店営業の厳しい現実を突きつけるものだった。他の地域での売上は好調だったものの、これによって和光の2店舗は一気に苦戦を強いられた。

一方で、この頃にはすでに新卒社員も増えていた。家族を説得してまで入社してくれた社員もいる。このままでは、会社の理念に共鳴してミリオンの門を叩いてくれた彼ら彼女らに活躍の場を与えることもできない。「強いものが生き残るのではない、頭の良いものが生き残るのでもない。変化に対応したものだけが生き残る」という言葉通り、ミリオンにも変化が求められているのは明らかだった。

社員とともに参加した研修会などを経て気持ちを立て直した豊は、新たな経営理念と経営計画書をまとめ、それをミリオン再出発の起点にした。全国に社員を派遣し、さまざまなスタイルで営業する各地のパチンコ店を調査・視察させるとともに、自らも北海道から沖縄まで全国を飛び回りながら、競合に競り負けないパチンコ店のあり方の研究に時間を割いた。

そこで、経営陣と社員たちが目的意識を共有し、導き出したひとつの答えが、長年にわたる社員の夢でもあった「パチンコをしない方も含めて地域の方々にも喜んでいただけるホール」の実現だった。特に若手社員らが抱いていたこのコンセプトは、ミリオン初となる郊外型大型店舗として2004年、埼玉・朝霞市にオープンした「ミリオン1100朝霞店」として結実。以来、同店はミリオンにとっての旗艦店としての役割を果たしていくことになった。

その後、この地域にも大型競合店の進出があり、グループの旗艦店も熾烈な競争の波に晒されることになったが、この時のミリオンは、競合店の進出で慌てふためくかつてのミリオンとは違う。経営トップから店舗・現場まで、徹底した問題意識の共有化が図られ、社員一人ひとりが意見を出し合える環境が整っていた。その結果として、社員たちの閃きや創意工夫により、地域のお客様の掘り起こしと広範囲からお客様を呼び込むマーケティング戦略の両立が実現していたのだ。

こうした力を結集し、ミリオン1100朝霞店は競合店に競り負けない強靭な店舗への改装を実現。適切なパチンコ機種の選定、ラインナップの拡充などお客様に喜んでいただける環境作りを徹底し、現在に至るまでグループの旗艦店であり続けている。

9history

震災で再確認したミリオンの存在意義、社会貢献活動での「業界健全化」

2011年3月11日、東日本大震災が発生した。地震と津波による甚大な被害に加え、福島第一原子力発電所事故による放射能漏れや電力不足への不安もあり、一部ではパチンコ店へのバッシングも起こった。

日本全体が重苦しい雰囲気に包まれ、アミューズメント事業を展開するミリオンの社員たちも、パチンコの存在意義というものへの自信を失いかけていった。震災当日は、多くの帰宅難民のために、営業は中止しながらも一種の道しるべとなるよう灯りをつけたパチンコ店は多い。徒歩で帰宅する人に景品の飲料水を無料で提供したパチンコ店もある。そこで言われた「ありがとう」の言葉から一転し、今はパチンコ店がバッシングに晒されている。こうした状況に豊自身、「パチンコ事業をやっていていいのか」「パチンコなんて世の中に不必要な存在なのかもしれない」と思い悩んでいた。

ところが、その一方には震災後もパチンコを求めて来店して下さるお客様がいる。しかも、その数は時間とともに増えていく。聞くと、営業再開を果たした被災地のパチンコホールもまた、多くのお客様で賑わっているという。つらい思いをされた方、不安や悩み、ストレス抱えた人々が、息抜きや心を休める場所、そして人とのつながりを得ることができる場所としてパチンコホールに足を運んでいるのだ。

多くの人が集うパチンコには人々の不安や緊張感を解消し、元気にする力がある。自分たちが社会に必要とされ、同時にその社会によって自分たちもまた生かされている。あらためて自らの商売の存在意義を知ったミリオンは、「元気パチンコJAPAN -いま私たちにできることを!-」という社内キャンペーンを立ち上げ、物心両面での支援活動や全店舗における徹底した節電に取り組んだ。当時150名在籍していた正社員のうち、豊も含む51名が被災地でのボランティア活動に参加するなど、全社を挙げて継続的な支援を展開したのである。

ホールを「娯楽の発信基地から、良心の発信基地へ」の合言葉のもと、1990年から「難民を助ける会」や「さぽうと21」などを通じて難民支援の社会貢献活動を開始し、現在でもこれを継続しているミリオンにとって、そうした社会とともに生きる姿勢は震災後により深く根付いたものとなった。

10history

「共感」を生む楽しさを創造「100年企業」宣言

2019年にミリオンは創業70周年を迎えた。

その翌年、2020年の初頭からは世界的な新型コロナウイルスの流行によって、パチンコ業界はまたしても大きな打撃を受けている。

東京都知事が感染爆発の重大局面とし、都民に対して週末の外出自粛を呼びかけた3月25日、ミリオンでは自社店舗の臨時休業を決断し、グループ全15店舗を週末の2日間休業とした。その決断は、どのパチンコホールよりも早いものだった。

その翌週、1日あたりのコロナ陽性者数がさらに増え、都知事がより強い口調で週末の外出自粛を訴えると、都内ホールの多くも週末の臨時休業を相次いで表明。ミリオンは2週続けてグループ全店舗が週末の休業に入った。事態が深刻化の一途をたどったさらに翌週には、政府が7都道府県に緊急事態宣言を発令し、対象地区となった東京・埼玉ではパチンコ店への休業要請が出されたが、ミリオンは休業要請期間に先駆けて、その2日前からグループ全店舗の営業を休止している。ミリオンの休業期間は、最終的に約50日間に及んだ。

グループを牽引する立場の豊は、終わりの見えない長期休業に大きな不安と会社存続の危機感を募らせたが、それ以上にここが瀬戸際だという思いが強かった。自分たちが今やるべきは、社会からの要請に応え、社会の信頼を得ること。これまで、幾多の困難に正面から立ち向かってきた経験から、それこそが「正しい経営」であり、その先にこそ事業の存続があると信じていた。

一方、社員たちはこの窮状を少しでも打破しようと、少しずつ戻ってきてくれた大切なお客様一人ひとりが安心して楽しんでいただける店舗作りに全力を注いだ。各店舗におけるパーテーションや消毒液の適切な設置はもとより、特殊清掃に関する講習を受けるなど、徹底した感染対策を実施。数々の困難を打ち破ってきたミリオンには、どんな事態に陥ろうと、できること、しなければならないことをきちんと行う姿勢が社員の一人ひとりに根付いていた。

営業再開後、ホールに戻ってきてくれたお客様からは「ミリオンは休業に入るのがどこよりも早かった」「本当にきちんとした会社だと思った」「感染対策がしっかりしているから安心」「信じている。これからもがんばって」など、ミリオンがとった行動を評価し、応援する声が数多く寄せられた。そのことは、グループ全体にとっての大きな励ましと自信につながっている。

これまで、幾多の困難を乗り越える中でミリオンは、「お客様の共感」「従業員、家族の共感」「社会、地域の共感」「お取引先の共感」の大切さを学んできた。単なる売上の拡大を目指すのではなく、既存店のお客様や従業員、そして地域を大切に一歩一歩進んできた。そのミリオンは今、この4つの共感が紡ぎ出す「共感経営」を武器に、「100年企業」を目指している。

2024年で創業75周年を迎えるミリオンにとって、100周年はさらに遠い未来の話だ。しかも、パチンコホールを取り巻く環境は年とともに厳しさを募らせている。社会の状況や産業の構造、人々のライフスタイルも常に変わり続ける。その中で、時には予想外の出来事や災厄に遭遇し、立ち尽くしてしまうかもしれない。

しかし、どんな時代でも、人と人とが「共感したい」と願う気持ちだけは変わることはない。そして、今のミリオンはたとえどのような状況であっても、経営トップが自らの言葉で想いやビジョンを語り、社員とそれを共有している。その結果として、当事者意識を持った社員たちは、どんな困難が待ち受けていようとそれに正面から立ち向かい、自らの意志で進化しようとする現場力を培ってきた。

終戦直後の1軒のスーベニアショップから始まったミリオンは今、「100年企業」に向けた手応えをしっかりと掴んでいる。